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検証!都市伝説・第四学群は存在した

関東近辺で地震が起きると、#筑波大学は核実験をやめろ というハッシュタグTwitter上で見ることがたまにある。

「筑波大が秘密裏に地下施設で行っている核実験の影響で揺れが起きた」というネタなのだが、もちろん学内で軍事研究をしているわけではない。「筑波大の地下には実在しない第四学群が眠っている」という都市伝説もあり、地下の第四学群をモチーフにした創作も多数行われていた。

こうした秘密の地下施設の噂がいまなお残っているのには理由があり、数年前に当時学生だった私は膨大な調査の末、その結果をまとめたのだが、公開していたサーバーの更新を忘れていてそのテキストも見ることが出来なくなっていた。

パソコンを買い替えたタイミングで当時の調査結果を掘り出したので、加筆修正してその全貌をお届けしたい。

 

筑波大学というなぞの多い大学

 

筑波大学では「日本には2種類の大学がある」という話をよく聞く。「筑波大と筑波大以外の大学」だというのだが、質の悪い冗談ではない。前身の東京教育大学を移転する際に、いままでの国立大学と異なる仕組みを持つ「新構想大学」として1973年に誕生した経緯を持ち、国立大学設置法(現在は廃止)にも、筑波大学は他の国立大学から独立した項目で扱われていた。

とはいえ、学生がその事実を意識することはほとんどなく、自転車で移動しなければならないほどの広大なキャンパス(なんと南北を移動するのに15分もかかる!)や、文理に加え体育や芸術も学べる総合大学としての側面などが特徴とされることが多い。

加えて、都心からのアクセスが悪く長年「陸の孤島」と呼ばれてきたことなどによって、都市伝説の宝庫としての顔も作り上げられていった。

 

学生宿舎の窓から毎晩星を眺めていた少女が実は自殺者だったという「星を見る少女」や、大学を震源とした地震が多発するのは地下で秘密裡に核実験を行っているため、などバラエティに富んだ物語が語られているが、特に人気を博しているのは「第四学群」に関する噂である。

何通りか存在するが、大筋は「筑波大には第四学群をつくる構想があったが頓挫した」というものだ。場合によっては、「第四学群の遺構は地下に存在する」であるとか、「第四学群は隠れて存在しており、秘密実験を行っている」とされることもある。

第四学群をテーマにしたホームページなども多数存在し、筆者も小学生のころにこれらの都市伝説を扱ったサイトにオカルト心をくすぐられたものである。

 

第四学群とは何か

「第四学群」というと、第一や第二はあるのかという話になるはずだ。

馴染みのない方に簡単に説明すると、筑波大は学部・学科制の代わりに学群・学類制を導入している。開学時から数十年間は無機質に組分けされたかのような第一学群、第二学群、第三学群(これら3学群をナンバー学群と呼ぶ)と体育専門学群、芸術専門学群、医学専門学群の計6学群が存在していた。*1

驚くべきことに、これらは学問領域によって分けられていたわけではない。

例えば、再編前に人文学類・社会学類・自然学類から成っていた第一学群には、名前そのまま人文学を研究するの人文学類と数学専攻や物理学専攻の学生が在籍する自然学類が共存していた。

第一学群は基礎研究、第二学群は応用研究、第三学群は先端研究と学際研究という区分で棲み分けが図られていたというが、分かりにくいとの意見も根強かった。そのため、のちに関連する研究分野ごとの学類同士を集める形で学群の再編が行われたことにより、 ナンバー学群は姿を消すこととなった。現在では、それぞれの学群の建物があった場所を、第一エリア、第二エリアと呼ぶのみにとどまっている。

 

2007年の学群再編から十数年経つが、第四学群の名前は未だに聞くことがある。

ここ数年でも、オリエンテーリング*2や謎解きゲーム*3の題材としても使われていたようだ。

これらは突発的な出来事ではなく、筑波大生の間で「第四学群」のキーワードは様々な形で引用されていたようだ。

 

コンテンツとしての第四学群、都市伝説としての第四学群

第四学群ホームページ(インターネットアーカイブより)

 

特に2010年ごろからはおおむね3つの勢力が「第四学群」を名乗っていたのではないかと想定されており、その影響力がうかがい知れる。第四学群のコスプレをした映像制作サークルXionLabo*4、同人ゲームを制作する4th cluster(当初は「同人サークル第四学群」を名乗っていた*5。)更には「第四学群」というアカウント*6が存在していた。

1997年から2002年ごろには第四学群のホームページも存在していた。*7

大学ホームページのパロディで、開設授業科目一覧が丁寧に作りこまれていたり、学類の紹介ページがあったりと、芸が細かい。

ギター・マンドリン部ならぬ「バター・マーガリン部」などの言葉遊びや、「反社会学類」や「日本酒・日本料理学類」などの既存の学類をもじった表現は前述のツィッターアカウントと共通しているものが多くみられることから、これらの表現は何らかの形で受け継がれていったのではないだろうか。

 

これらの創作が綿々と続いていたのに対して、第四学群は都市伝説としても長らく語り継がれてきた。

筑波学生新聞(現在は休刊)や筑波大学新聞などの学内メディアによって「噂」として語られる*8こともあれば、ミクシィ筑波大学コミュニティで話が上がったり*9することもあったようだ。こうしたメディアによる発信と口伝が繰り返されることによって第四学群は生き続けたのではないだろうか。

 

第四学群の所在地には大きく分けて2系統の説がある。

一つが大学地下に広く張り巡らされる「共同溝」で、もう一つが第二学群と一の矢学生宿舎の中間にある駐車場周辺である。「共同溝」説は表立ってできない隠れた実験を行う施設が、本来送電線などインフラ設備が詰め込まれた共同溝の奥に存在するというもので、駐車場説は「学内の主要施設を結ぶループ道路の内側に広大な空き地があるのはおかしい」ということを根拠としている。

「広大な空き地の地下部分に第四学群と書かれた看板がある」という説もあり、バリエーションは多様だ。

 

第四学群はその存在自体の神秘性と、創作への応用力の高さから多くの人を引き付けてきた。

とはいえ、第四学群はあくまで都市伝説や創作のモチーフとして扱われてきた歴史を持っており、私には空想の産物のように思われた。しかし、ある人物との出会いによって第四学群は急に現実感をもって迫ってきたのであった。

 

関係者との出会い

A氏との出会いは偶然だった。

当時私は、都市計画や地理学の専門家に学内を散策しながら筑波大の学内案内をしてもらう企画を担当していて、都市計画の専門家であるA氏を紹介された。

A氏は筑波大の元役員でもあり、学内の事情に詳しいだろうということで白羽の矢が立ったわけだが、第四学群とはもともと直接のかかわりはない。大学図書館にスタバを入れたり、使われなくなった宿舎の管理棟を保育園にしたりと、多大な実績を残してきた人物である。

 

何年か前の話になるので前後の文脈はもはや覚えていないが、たしかにA氏は第四学群の計画を確かなものとして語ってくれたのだ。

A氏は、直接は知らないが、第四学群の構想があったこと、国際関係学類(現在の国際総合学類)はその名残として作られたこと、おそらく先述の駐車場や虹の広場の付近が予定地だったのではないかということを語ってくれた。

 

話の内容自体は特に目新しいものでもない。しかし、大学役員経験者が第四学群について言及したことは強い事実として残る。第四学群の計画は存在したのではないか。私はそのとき確信を得て、この話を調べてみようと密かに決心をしたのであった。

 

とはいっても、すぐに問題が解決することはない。どう調査すべきと思案しているうちに1年がたっていた。そんな折、偶然知り合った元職員のB氏に決定的な話を聞くことができたのだった。

 

B氏はもともと東京教育大の事務員だったという。

東京教育大は筑波大の前身となった大学で、筑波大の開学に伴い廃止された。それに伴いB氏はつくばに移り、入試関連の業務や日本語・日本文化学類の立ち上げに関わったというのだ。

つまり、B氏は筑波大を構想過程から知る貴重な人物らしい。私が第四学群について尋ねると、「国際関係学群構想のことではないか」と昔日譚を語ってくれた。

国際関係学群は、80年代に国際政治学国際経済学日本語教育、地域研究の4学類を以って作られる予定だったという。建設予定地は、噂通り駐車場・虹の広場の周辺だった。

しかし、パンフレットも作っていたにも関わらず、新学群に関する国会審議である議員から「軍事研究につながるのではないか」との懸念が出たことで新学群設置は頓挫。

当時の学長候補が「国際関係を扱う学類だけでもつくろう」と力を尽くした結果、なんとか国際関係学類の設置に漕ぎつけた(1983年)。関係職員は夏休み返上で計画を練り上げたという。

国際関係学類は第三学群に設置されたが、もともとの領域が近い社会学類のある第一学群でなかったのは、当時の大学執行部が筑波移転に強硬に反対した 教育大出身者の多い第一学群を信用していなかったからだという。移転後に新たに設置された第三学群であれば、政治的に本部の意向を伝えやすいとの策略だったのだろう。

また、1985年に設置された日本語・日本文化学類もこの構想の名残とのことだ。

 

他にも、開学当初に現在はそれぞれ専門学群として設置されている、医学・体育・芸術の3学類をまとめて第四学群とする構想もあったとも話してくれた。

 

そして、B氏は「詳しいことを知りたいなら大学の基本計画を議論した報告書を見るといい」とアドバイスをくれた。時代が早い順から、表紙の色をとっ て「白表紙」「黄表紙」「青表紙」「茶表紙」と呼ばれる報告書があるらしい。私はB氏に謝意を伝えて、それらを確認してみることにした。

 

明らかになった全貌

青表紙と黄表紙

 

さらなる調査を経て、第四学群の全貌はついに明らかとなった。

筑波大は1973年(昭和48年)10月に開学した。当時、東京は急激な人口増加によって過密に悩まされており、国はその解消のために大学や研究機関をつくばに集団移転することを決定した。以前より敷地が分散しており移転策を探していた東京教育大は、それに伴い大学移転を決めたが、学園紛争の激化など紆余曲折を経て、「新構想大学」として生まれ変わることになった。

開学10年を記念して作成された冊子「筑波大学その10年」には当時の様子がこのように綴られている。

「当時、大学紛争の原因は旧制大学以来の古い大学制度にあると指摘されて、大学改革が熱心に叫ばれ、各大学では大学改革案が次々に発表された。こうしたなかで、東教大は大学改革を実施し得る最短距離にあるのであるから、単なる移転ではなく、全国の大学改革の先導的試行として新構想大学を創設するという大きな役割を果たすべきであるという主張が学内から出てきた。」(筑波大学その10年 p.39)

 


新たに大学を作るわけだから、理念や学部の構成、建物の配置に至るまですべて一から検討しなければならない。東京教育大は「マスタープラン委員会」を設置し、新大学の構想作りの任に当たらせた。もちろん教育組織についても話し合われており、様々な検討がなされた。

1969年(昭和44年)7月にマスタープラン委員会がまとめた「筑波における新大学のビジョン」では「College(便宜上「学部」と呼ぶ)を作る」とあり、第1学部から第12学部まで設置する*10ことが提案されていた。「ナンバーによって区分し、学部間に格差を生じないよう配慮する」としていたこれらの学部は、「①人文・社会系②生物・医学系③自然系④工学系またはⅠ.教養カレッジⅡ.専門カレッジに大別できる」としていた。

これらは、アメリカのリベラル・アーツ・カレッジをモデルとしており、文理融合の学部編成をする構想であったという。*11

 

同年12月に出された「筑波新大学基本計画に関する各種委員会報告(第1次報告)」(以下、第1次報告)ではこれらの12学類を組み合わせて学群を 編成するとしており、内容の似ている学問分野を3つずつ組み合わせるA案、専攻の取り方によって分けるB案、カリキュラムの日程ごとに分けるC案が提示された。

 

この報告書は細部が詰められ、1971年(昭和46年)6月に「筑波新大学に関する基本計画案」(通称・白表紙)としてまとめられた。ここでは学類は伝統的カリキュラムを扱う第1学群、広域カリキュラムを扱う第2学群、先行的カリキュラムを扱う第3学群、特殊な訓点とカリキュラムを扱う第4学群の4 つに大別されている。肝心の学類であるが、元となった第1次報告とは全く異なったものとなっていた。構成は以下の通りであった。


第1学群 第1学類 人文1、第2学類 社会1、第3学類 自然1第2学群 第4学類 人文2、第5学類 人間、第6学類 自然2第3学群 第7学類 人文3、第8学類 社会2、第9学類 自然3、第10学類 農林第4学群 第11学類 国際関係、第12学類 法、第13学類 総合工学

 

また、「当初数年間は下記の2学群で出発しやがて4学群になる」との記載もあった。

 

第1学群 第1学類 人文、第2学類 社会、第3学類 自然第2学群 第4学類 人文社会、第5学類 人間、第6学類 農林、第7学類 工学

 

これに加えて、特別な能力や資格を要求する専門分野として、「スクール」が設けられる構想があり、①体育学スクール②芸術学スクール③医学スクール④教育指導者養成スクールの4つが検討されていた。

ここで注目したいのが第4学群である。国際関係を扱う学類の存在は、のちの国際関係学群構想に連なるようにも思えるし、順次開設していく構想があったならば、80年代に起こった設置の動きも辻褄が合う。

 

だが、計画案はまだ構想段階である。

同年7月の「筑波新大学のあり方について」(通称・黄表紙)では、再び構想案ががらっと変わってしまう。

従来検討されていた学類は「履修コース」になり、スクールは専門学群として、第1~第3学群に加えて設置されることとなった。学内の建物の配置などを決める「キャンパス・プラン」を作成するための作業チームが発足したのが同年11月であることを考えれば、まだまだ構想は練り上げている最中だったのだ ろう。

その後、「専門学群はまとめて第四学群として設置する案も出た(カリキュラム委員会関係者)」というが、計画を煮詰めていく中でその案も消えていったという。

 

最終計画案である「筑波大学の創設準備について(まとめ)」(通称・青表紙)はその翌々年である1973年(昭和48年)9月に出来上がった。黄表紙にあった「履修コース」は採用を見送られ、学群・学類制度が復活を果たした。

詳しい構成は以下のとおりである。

 

第1学群(基礎学群) 人文・社会・自然第2学群(文化・生物学群) 比較文化・人間・生物・農林第3学群(経営工学群) 社会工学・情報・基礎工体育専門学群芸術専門学群医学専門学群

 

青表紙が完成した翌月に筑波大学は開学。当初は、第一学群・医学専門学群・体育専門学群が設置され、1975年(昭和50年)に第二学群と芸術専門学群が、1977年(昭和52年)に第三学群が設置された。

この段階では、第四学群は構想の中で検討された案の中の一つにすぎないようにも思える。しかし、この話にはまだ続きがあった。

そう、1980年代の国際関係学群構想である。

 

国際関係学群構想を追って

1977年(昭和52年)の第三学群の設置など、青表紙に記された基本計画はどんどん遂行されていった。

これは福田信之学長(当時)が1981年(昭和56年)10月に「昭和56年3月末をもって当初計画はおおむね達成されるに至った」*12と述べていることからも、大学当局が計画は順調に進んでいると考えていたことは明らかだ。それと前後して、筑波大学では次なる長期計画を立てるべく、未来構想が練られていた。

1980年(昭和55年)には「筑波大学の基本構想」(通称・茶表紙)が作られ、これをもとに第二期五か年計画が策定されていった。国際関係学群構想はこの計画の中に大きく記された。実際の設置への動きは「筑波大学その10年」が詳しい。

 

 この第二期五か年計画のなかで、第二期への飛躍の旗手として期待されたのが、国際関係学群の創設である。国際関係学群の 構想は東教大の開設準備委員会の基本計画のなかに第四学群として考えられていたという経緯もあって、早くからその実現が待望されていたものであった。一方 昭和五〇年代に入って、日本の国際的地位の向上とともにますます国際人の養成が国家的急務となってき、国際関係学群の創設を求める声が社会の有識者の間で 年ごとに高まってきた。国際関係学群及び学類の設置については、第二期五か年計画に従って、昭和五四年から懇談会又は委員会を設け、昭和五五年度は学類創設、昭和五六年 度・五七年度は学群創設の概算要求を行ってきた。これまで政府の厳しい財政抑制政策のために見送られてきたが、昭和五八年度予算で学類(定員四〇人)とし て設置することが認められ、同年四月より発足した。国際関係学群では、国際的な政治、経済、外交などについて幅広く学ぶことになり(後略)

筑波大学その10年 p136-137)

 

「飛躍の旗手」として華々しく期待された国際関係学群だったが、概算要求は何度も見送られ、設置には困難が伴ったことが読み取れる。そもそも、第四学群の構想自体が不遇な運命を歩んできた。

白表紙の時代から検討がなされるも、最終案である青表紙の時点で削除され、ようやく日の目を見たと思ったが、またしても見送られた。

当時は中曽根内閣が「留学生10万人計画」を発表するなど、国際情勢に強い人材の育成は急務だったはずだ。にも関わらず、学群創設がなかなか果たせなかったのはほかの事情も関係していたように思える。

そして、国際関係学群は国際関係学類単独での創設に衣替えされる形で承認された。

 


1983年(昭和58年)03月30日の参議院文教委員会の議事録に日本社会党の粕谷照美議員が国際関係学類について質問している一幕があったので引用しよう。

 

 最初に、国立学校設置法の一部改正案について質問をいたします。(中略)衆議院の方でもわが党が問題にいたしましたの は、筑波大学に国際関係学類を設置することに関して本当に閣内で意思統一ができたのかどうなのかという問題点と、それから国際関係学群構想の中に軍事研究 を行うのではないかという疑問点が出されて論議されているわけで、そのことはもう大臣も十分御承知のことというふうに思います。その点についての参議院に おいての明確な答弁をひとつお願いをしたい。(後略)

 

つまり、国際関係学類で軍事研究が行われるのではないかという懸念を示したわけだ。これはB氏の証言とも一致する。それに対して文部大臣(当時)の瀬戸山三男議員はこのように答弁している。

 

(前略)国際関係学類を新設することについて、軍事研究の問題が衆議院でもいろいろ御意見がありました。これは、いわゆる 国際関係時代でございますから、国際関係をいろいろ、政治、経済、社会をいろいろ研究してもらって有能な国際人を養成する、こういうのがねらいであります が、その中に特に軍事研究するのではないかという御指摘、御意見があるわけでございますけれども、国際関係については、国際間の軍事情勢がどうなってお る、あるいは世界の平和の関係がどういうふうになっておるということを研究するのは、これは国際関係を研究するときには当然といいましょうか、あるわけで ございますけれども、言われますように軍事技術の研究であるとか兵器の研究であるとか、自衛隊でやっておるようなことをやるということはこれは絶対ないわ けでございまして、そういうことはあってはならないし、そういうことを目標にしておるわけではございません。(後略)

 

大学での軍事研究については戦後から現在に至るまで議論があった。

科学者を代表する機関である日本学術会議は戦後すぐに「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」とするも、防衛省が大学に資金を提供し安全保障のための研究を行わせていることなども昨今話題になった。

たしかに新設する学部が軍事研究につながる恐れがあれば反対する意見が出るのは頷ける。とはいえ、本当にカリキュラム上の問題はあったのだろうか。

この答弁があった参議院文教委員会の1週間前に行われた、衆議院の文教委員会でカリキュラムについて言及があったので紹介したい。同年3月23日、衆議院文教委員会での山原健二郎議員(日本共産党所属)の質問である。

 

いま経過が話されましたが、私、資料を全部ここへ持ってきているのです。時間の関係で全部読み上げるわけにいきませんが、 いまお話のあった六月の十七日の評議会の「五十八年度概算要求主要事項」によりますと、「学部などの創設など」の項目で「国際関係学群(仮称)の創設準 備」、こうなっております。ここに出ておりますのはあくまでも学群であって、そうして創設準備であるわけです。これが六月十七日ですね。それから、私もなぜ創設準備かということで調べてみますと、昨年の三月十日に筑波大学国際関係学群設置準備委員会が出している「国際関係学群及び関 連大学院について」の報告書によりますと、報告書はこれですね、お持ちだと思いますが、これによると、昭和五十四年から審議してきて五十六年の五月に評議 会で準備委員会が設けられ検討してきた。今後の準備の基礎資料をつくるように努めてきた。「しかしながら検討すべき事項はまだ多く、教育課程の具体的内 容、既存の研究科等との関係、研究組織等については今後更に検討を進めなくてはならない。本準備委員会は、所期の目的の半ばしか達成できなかった」、これ が報告書ですね。まさに今後の検討課題であり創設準備の段階であるということです。さらに七月十五日に評議会が開かれておりますが、その議事録も持ってまいりましたけれども、この議事録を見ますと、国際関係学群及び学類については 何ら検討も報告もなされていません。これが評議会の姿ですね。ところが、八月三十一日に文部省が概算要求として発表されました文書の中に突然「国際関係学類を第三学群に設置する」、これは三浦さんからもお話がありましたように、「第三学群に設置する」、相当無理な異例の概算要求書が出てきたわけですが、こ れは何を根拠にしてやったのですか。(中略)そして、その内容にも問題があります。これは先ほど馬場議員あるいは三浦議員からもお話がありましたけれども、「国際関係学群及び関連大学 院について」の三月十日の文書があるわけです。この中には、授業科目の中に軍備管理論、演習、国際緊張、冷戦論の演習、国際安全保障論の演習など、きわめ て軍事的な意味が含まれている。そして、文部省の「履修計画表」が先ほど出されましたが、これによりますと、「国際調停交渉研究」「国際秩序モデル研究」 「安全保障研究」などが入っているわけです。「安全保障研究」というのは軍事的なものはないなどと先ほどおっしゃっておりました。お気持ちはわかりますけ れども、安全保障というのは一体何か。これは大平さんのときに出されましたところの報告書でございますけれども、安全保障というのは初めから軍事問題で す。もちろんほかにも国際エネルギー問題その他の安全保障問題はありますけれども、軍事問題のない安全保障科目なんてありませんよ。それが文部省もみずか ら出してきておられるこの中にあるでしょう、「安全保障研究」ですね。(後略)

長いので要約すると氏の指摘は①国際関係学群としての設置が進められていたのに急に国際関係学類の設置になったのはなぜか②授業科目が軍事的なのではないか、ということである。

当時想定されていた授業科目については、1982年(昭和57年)の3月には筑波大学国際関係学群設置準備委員会による「国際関係学群及び関連大学院について」を参照すれば確認できるはずだが、残念ながら入手ができなかった。重要な文書の中で今回唯一内容を見ることができなかったのは無念でしかない。 もし、入手出来たら後から追記したい。

B氏によれば、これらのカリキュラムは仮の案として掲載されたものであり、学群創設のために参考にしたアメリカの大学で行われていた授業科目を直訳したものに過ぎなかったのだというが、実際に仮案がまとめられ、それに対する批判があったのは事実である。

さて、このような批判を受けた国際関係学類だが、予算が承認され無事設置された。そして、1984年(昭和60年)には国際関係学類の創設から遅れる形で日本語・日本文化学類も予算要求がされた。

当時の筑波学生新聞には、国際関係学類とともに「国際関係学群」に所属するとみられると報じているが、実際には日本語・日本文化学類は第二学群の所属となった。

 

 「新学類設置が概算要求案に 第四学群構想が浮上/社会定員増は見送り」(前略)佐藤副学長は十二月の教育審議会席上で「日本語及び日本文化を海外で教える人材を育成する学類」の構想があることを発言。八五年度の概算要求案として提出する、とした。関係者によれば、同学類は、現在第三学群に所属している「国際関係学類」とともに、新たに創設される第四学群に属することになると見られている。定員、教育内容は未だ公表されてないが、また、名称に関しては「日本文化学類」などが挙がっている。(後略)(筑波学生新聞21号 1984-02-10 1面)

 

ちなみに、B氏によれば、残った地域研究学類は人材が少ないとのことで断念。現在は比較文化学類などであれば近い内容を研究できるはずだ。

国際関係学群自体は作られることはなかったし、地域研究学類の創設も叶わなかったが、その構想自体は国際関係学類と日本語・日本文化学類の設置という形で実現していたのだ。もともとの構想のおおよそは実現したとみていいだろう。

私たちは、第四学群は存在したと断言していいのではないか。

 

第四学群よ永遠に

第四学群は存在した。

筑波大の構想段階からあった国際関係を扱う学類が、国際関係学群構想になって、現在の国際総合学類と日本語・日本文化学類になったわけだ。

諸説あった第四学群の場所についても、現在の2学類がある場所の周辺だと考えれば無理もなくなる。ちなみに第四学群地下説の根拠になった「地下の看板」については面白い話がある。共同溝探検をした筑波学生新聞が1988年の71号で看板の写真を掲載していたのだ。

第四学群とされる場所(筑波学生新聞71号より引用)

 

写真には「ガス管 第四学群棟 1976-10」とある。1976年は茶表紙の作成(1980年)よりも以前だから、この看板が公式のものだとすれば第四学群の構想は青表紙で削除されながらも生き続けていたのではないか、なんて想像もできる。

第三学群ができたのが1977年ということを考えると、第三学群付近の共同溝を建設している当時に先走って看板をつけたのかもしれない。

そういえば、当初の大学マスタープランを紐解いていくと、北と南に拡張用地を残していたという話もあった。その想定では学類は南、学系(大学院)が北に延びることが考えられていたようだ。

そう思い再びB氏に話を聞きに行くと驚きの答えが返ってきた。「あれは大学の建設中に施設部が先走って作ったものだろう」と。話はこうだ。

「共同溝を建設していた施設部は、建物の拡張を見越して第四学群の看板をとりあえずつけたのではないか。現場に本部の意向がどこまで伝わっていたかは定かでないが、建設計画自体が急造だったため、そういうことが行われていてもおかしくない。」

ともあれ、地下に看板があったのは事実のようだ。

また、B氏は「共同溝に侵入した学生が看板を発見したことがあったが、それが元で第四学群の噂が広まったのではないか。」とも指摘する。

本来、共同溝の第四学群看板は誰かが見ることを想定していないはずだ。侵入した学生が持ち帰った話が、膨らみに膨らんでいったということは想像にたやすい。「第四学群は地下に存在する」という系統の都市伝説はこうして広まったのではないか。

そして、都市伝説は形を変えて「第四学群ホームページ」をはじめとする創作につながっていったのだろう。

 


私の調査報告は以上だ。しかし、すべての謎が明らかになったわけではない。もし、第四学群について何か情報を知っていたら教えてほしい。

今回調査をして驚いたのは第四学群に関する資料が大量に残されていたことである。大学開学時の資料が残されていたことは別として、学生が独自に検証・考察をした記事やサイトが数多く残されていたことは第四学群に対する関心の高さをうかがえる。

ナンバー学群が廃止されて10年超、第四学群に対する興味は薄れていてもおかしくない。にも、関わらず何故我々は心惹かれるのか。

 


第四学群への謎は尽きない。持ちうる限りの資料は提示したとは思うが、本記にはまだまだ推論によるところも多い。また、気づいている人も多いだろうが、第四学群の成り立ちには大いなる政治の力が働いていた。自分の力不足でこれ以上踏み込んだことは書けないし、そのための資料が手元にないので、本稿が未完成になってしまっていることは否めない。

しかしながら、第四学群の辿ってきた大きな道筋を示せたことは大きな成果であろう。読者においては、本記が第四学群への、ひいては筑波大への探求を進めるきっかけになれば幸いである。

 


第四学群は存在した・終

*1:2002年に旧図書館情報大学と合併することで図書館情報専門学群が発足し、7学群となる。

*2:https://twitter.com/tsukuba_OL/status/959036386908160000

*3:https://twitter.com/reald_tsukuba

*4:https://www.youtube.com/user/Xionlabo

*5:https://twitter.com/4th_cluster/status/14092265555

*6:https://twitter.com/dai4gakugun

*7:https://web.archive.org/web/20010111133600/http://www.kyouiku.tsukuba.ac.jp:80/~kohorogi/fourth/index.htmlインターネットアーカイブ

*8:筑波大学新聞 第214号(2001年6月11日発行)ほか多数

*9:https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5558&id=967937

*10:第1学部 人文系、第2学部 現代語・外事系、第3学部 社会系、第4学部 社会・人間系、第5学部 人間・生物系、第6学部 スポーツ科学系、第7学部  医学系、第8学部 生物・化学系、第9学部 科学・物理系、第10学部 数学・物理・地球科学系、第11学部 工学系、第12学部 造形系であった。

*11:筑波大学30年史編集委員会(2009)「筑波大学30年史稿」

*12:福田信之(1981)「筑波大学の基本構想について ―“青表紙”から“茶表紙”へ―」筑波フォーラム15号,p.3-4